深沢潮著『海を抱いて月に眠る』在日二世が亡き父の手記から自らのルーツを再認識する

在日二世の主人公が父親の遺品である手記を読み、それまで知らなかった父の過去を知ることで自身のルーツを再認識するという物語です。その手記には戦後日本にわたってきた父親が祖国に戻ることを胸に歩んできた30年の歴史が刻まれています。

それはつまり、朝鮮戦争、南北分断、軍事政権時代、そして民主化という朝鮮半島(韓国)の戦後の歴史(のさわり)を知ることでもあります。

 

深沢潮著『海を抱いて月に眠る』

深沢潮著『海を抱いて月に眠る』

 

主人公の文梨愛(ぶんりえ)には著者である深沢潮さん自身が反映されているところもあるそうですし、小説の中で父親の手記として語られる物語は深沢さんが直接父親から聞いた話とも語っています。

 

どんな方なんだろうとググっていましたら、深沢さんのインタビュー記事が「NEWSポストセブン」にあったのですが、このサイトは広告が汚いのでリンクを貼るのも嫌だなあとさらにいろいろ見ていましたら、同じ記事がLINE NEWSに引用されていました。

 

 

この記事を読みますと小説のおおよその内容はわかります。 

 

梨愛の父親は90歳、ソンビョン(ソンピョン?)を喉につまらせて亡くなったと家政婦から連絡を受けます。

 

小説にはソンビョンと表記されていますが、ググりますとソンピョンと出てきます。あんこが入ったもちを蒸したものだそうです。美味しそうですね。

ソンピョン(松餅) ハンおばさんの「万能の素」と韓国商品のお店-I Love Seoul 美訓物産

 

餅を喉につまらせて死ぬというのは苦しそうで嫌ですが、フィクションでもありますし、また90歳ということもあり、悲嘆の描写はなく、葬儀に訪れた50歳前後の女性金美栄と棺に覆いかぶさって「日本人にさせられちゃって」と慟哭する老人がいったい何者かということを中心に話は進みます。

 

ただこの小説は、その「日本人にさせられちゃって」という言葉から連想されるいわゆる「恨(ハン)」をベースにした内容ではありません。その点について深沢さんは、

在日文学といえば“恨”だと理解され、強調されてきたことに違和感があります。事実ではあるにしろ、社会の底辺に置かれてきた在日というステロタイプもある。

と語っており、実際、おそらく深沢さん自身も感じているであろう日本社会における差別に関する記述はまったくと言っていいほどなく、韓国の歴史をよく知らない者には、この小説は戦後韓国の歴史の入門書のようなものにも感じられます。なぜなら、分量にして小説の7割くらいを占めるであろう父親の手記の目線が常に自分の国、韓国へ向いているからです。

 

小説のスタイルは、梨愛と父親それぞれが交互に一人称で語るスタイルになっています。ただ、記述としては梨愛が手記を読むというフリはなく、いきなり、父親である本名李相周が16歳の時に反政府運動への弾圧(とはちょっと違う印象)から逃れて日本に密航するシーンから始まります。唐突ですので、一瞬、何が始まったの?とは感じますが、これは梨愛が手記を読むという流れではなく、とにかく父親の物語が別軸で始まったということです。

 

それと小説にはない密航という言葉を使いましたが、それは現在からの視点であり歴史を見れば一概に密航とは言えません。朝鮮半島は日清戦争での清の敗北以後、次第に日本の支配下に置かれることになり1910年に日本が併合してしまっています。ですので、それ以後1945年9月2日までは朝鮮半島は日本の施政下にあり、その間、数に制限はあったようですが、自発的、半強制、強制含めてかなりの数の朝鮮人が日本に渡ってきています。そして、日本の敗戦後は連合国軍の管轄下から米ソ対立の最前線となって1948年8月15日に大韓民国、そして9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が樹立され南北が分断されてしまいます。

 

ですので日本の敗戦から少なくとも数年は相当な混乱期であり、大陸や半島からの日本人の引揚者もいるわけですし、少なくとも朝鮮の人々はそれまでは日本人となることを強要されてきたわけですからいきなり密航というのは筋違いでしょう。

 

とにかく父親の物語はこうした時代から始まります。その後もあまりはっきりした時系列は語られません。韓国で起きる事件などからこれくらいの時期かなという感じで進みます。そして手記の最後は1970年代後半くらい(だと思う)で終わっており、それは父親がそれまで祖国の自立と民主化を目指して活動し、また祖国への帰還を夢見てきたことの、ある意味挫折の結果であり、そしてそれは日本で生きていく決断の時期だったということです。

 

父親李相周は16歳の時に二人の友人、姜鎭河と韓東仁とともに三千浦(泗川市)から漁船で海を渡ってきます。しかし対馬沖で船が難破し九州のどこかに流れ着きます。

 

この小説、全体的に細かいところはかなり曖昧です。著者が父親から聞いた話がベースになっているということからかも知れません。きっちりした裏付けのある話を期待しますとやや物足りなく感じられますが、ひとりの人物の実体験を聞いていると考えれば特に違和感はありません。

 

漁船には兄貴分肌のアン・チョルスが同乗しており、そのアン・チョルスの考えで日本から韓国へ帰還する途中に遭難したと申し出て無事に入国します。そしてさらに同胞たちの力添えを得て、博多から大阪、そして東京へと移動します。

 

その間もいろいろ同胞たちとの交流が語られます。日本人はほとんど登場しません。

 

外国人登録をどうしたかについては、別人のものなのか偽造なのかはわかりませんが、米穀通帳をもとに文徳允、日本名文山徳允となります。

 

その後は日雇いの肉体労働から始め在日朝鮮人連盟に入り、朝鮮人学校の教師となり、1948年4月3日に起きた「済州島四・三事件」の情報が入って仲間たちと話をする場面があります。深沢さんの視点と言いますか価値観が現れている箇所があります。

 

もちろん文徳允の言葉としてです。

私たち朝鮮人は、同じ民族同士で互いを悪魔だと憎しみ合い、殺し合っている。
そして日本に来たら来たで、自由に母国語を学ぶ権利を奪われ、押さえつけられようとしている。
そう思うと、悲しみで胸が押しつぶされそうだ。
日本は戦争に負け、占領下ではあるけれど、女性に参政権まである新しい民主的な憲法が制定されたというのに。
日本帝国主義から開放された朝鮮が、まっさきに平和に、幸せにならなければならないはずなのだ。納得がいかない。 

 

その後、在日朝鮮人連盟も教師も辞め、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国樹立による南北分断の事実を知ったその日の夜、3人は皇居の堀で釣りをします。その時、文はこの森の奥に住む「天皇」という存在に思いをめぐらせます。文たちは朝鮮の学校で「教育勅語」や「皇国臣民ノ誓詞」を唱えさせられた時代の人たちということです。

 

その後、朝鮮戦争、1960年の李承晩政権崩壊、そして1961年の朴正煕によるクーデターによる軍事政権という祖国での事件や情勢変化にともない、文たちも民団(在日本大韓民国民団)に入り、その下部組織である韓青(在日韓国青年同盟)で活動する姿が描かれていきます。

ただ、それらの具体的な記述はほとんどなく、文たちの日常生活がほとんどを占めています。居候先の女性に異性としての感情を持ち、橋の下の掘っ立て小屋暮らしから新橋の四畳半に移り、友人ふたりの結婚、そして文自身の南容淑とのデートや結婚が語られていきます。

 

文の結婚生活には深沢さんが見てきた実際の父親像が反映されているのかもしれません。妻の容淑への対し方のそっけないことと言ったらありません。文本人はどう対したらいいのかわからないとか結婚生活よりも祖国を思う活動にのめり込んでいたと語っていますが、読んでいて離婚に発展するんじゃないかと思うくらいです。

 

容淑に「本当に冷たい人……いえ、かわいそうな人ですね」と言わせています。

 

中盤からはそうした家族の話がわりと多くなっていきます。長男鐘明が生まれますが心臓疾患でチアノーゼの症状が出ています。なんとか手術で改善はしますが虚弱体質が続きます。

 

金大中と会うシーンがあります。これは深沢さんの実の父親が金大中を支援し一緒に写った写真もあるそうです。

 

金大中事件」が起きます。同じ頃、小学校に入学する歳になっていた鐘明が再び手術をすることになります。その時、同年代の東仁の娘が千羽鶴を折って見舞いをしてくれます。その娘が父親の葬式に来た女性金美栄です。この時から40年後くらいということになります。

 

文は次第に韓青の活動から離れていきます。理由は容淑の実家の苦境を助けるため民団系の人物からお金を借りることにしたからです。つまり、韓青は朴正煕の傘下にある民団から離脱して金大中支援の独自活動をするようになっていたということです。あまりその精神的苦悩は書かれていませんが、要は家族のためとはいえお金で信念を曲げたということです。

 

そして容淑が第2子を妊娠します。梨愛自身です。容淑が文に活動をやめてほしいと懇願します。そんな折、東仁が韓国に強制送還され逮捕されます。

 

一年後、梨愛が生まれ容淑とともに退院してきたその日、鎭河が東仁の死亡の知らせを持ってきます。父親の葬式で「日本人にさせられちゃって」と慟哭していたい老人はこの鎭河です。

 

ということで父親の手記は梨愛の誕生で終わっています。

 

で、父の葬式後の梨愛の行動は、まず金美栄に会いに行くことから始め、父の愛人ではないかと疑っていたこともありあまりいい印象は持たず、その後納骨の日に、先に手記を読んでいた兄がその場に美栄を呼び、さらに韓国への納骨に同行しないかと誘うにつけ疑念が増すばかりとたどり、そこで兄からこれを読んでみろと手記を渡されるということになっています。

 

そして、韓国、三千浦を訪ねた梨愛、鐘明、美栄の3人はあの慟哭の老人、鎭河と対面します。鎭河は15年前に祖国に戻ったと語ります。また鎭河は「相周が来ると、いつも同窓会になったもんだ」と父親が頻繁に韓国へ来ていたことを教えてくれます。

 

「あの、父は、文のままですが、姜さんは、名前を取り戻したんですよね?」
梨愛はずっと気になっていたことを訊いた。
「私は、こっちに来てから、いろいろ手を尽くしてやっともとの名前を名乗ることができた。相周も、死ぬときは本当の名前で死にたいと言っていた。もちろん、東仁もそうだったはずだ」
その言葉に、梨愛、兄、美栄の三人ともふたたび沈黙に陥ってしまった。 

 

そして梨愛は鎭河と

「私と娘の姓を、文から李に変える、つまり、本当の姓に戻すことはできますか?」
「かなり難しいだろうが、希望はある。わたしが協力しよう。さっき、美栄さんにも同じことを言われた。金から韓に戻したいって」

と語り合い、

梨愛は、りえからイネにしたいとも思っていた。(略)イー・イネとして生きていきたい。 

と自分に言い聞かせるのです。

 

海を抱いて月に眠る

海を抱いて月に眠る

  • 作者:潮, 深沢
  • 発売日: 2018/03/26
  • メディア: 単行本