柴崎友香著『寝ても覚めても』 映画も良い、原作も良い

寝ても覚めても: 増補新版 (河出文庫)

寝ても覚めても: 増補新版 (河出文庫)

 

映画が良かったので原作を読んでみました。

 

面白いですね。

 

この小説からあの映画が生まれるのかとも、この小説だからあの映画なんだとも、なんとも不思議な感じで、このふたつ、随分雰囲気は違うのですが、たとえて言うなら、映画は、小説の中の朝子を実在する人物としてずっと見ている、つまり、この小説の中に書かれている朝子の心の内はわからないけれども、朝子そのものはわかるという男性が、その朝子を第三者視点で語っているようなものという感じです。

 

小説は一貫して朝子の一人称視点で語られます。

 

ただ、悲しいだの楽しいだのの感情的な記述はほとんどなく、朝子が目にするものや朝子が思い浮かべるものが書き連ねられていきます。

 

たとえば冒頭のシーン、友達との待ち合わせの三時間前に高層ビルの展望台に来たらしく、27階から見る街の風景や朝子の目に入るまわりの人々の行動が、なんと言うんでしょう、ぽんぽんぽんと描かれていきます。

 

この場所の全体が雲の影に入っていた。

(朝子が見る街の描写)

今は、雲と地面の中間にいる。
四月だった。

二十七階だった。壁一面のガラスの向こうに、街の全体があった。

(朝子が見る子供たち、家族連れの描写)
(朝子が見る街の描写)
(朝子が見る別の家族の描写)
(朝子が見るカップルの描写)
(朝子が見る街の描写)

 

こんな感じで、朝子の見たものや朝子の想念がパッパッパっと画面が切り替わるように描かれていきます。

 

文体は一貫して「〇〇した」という曖昧さを拒否するような断定調で進みます。

 

少し話がそれますが、この冒頭の書き出しは、『春の庭』の冒頭にも似たような描写があります。太郎がアパートの窓から空を眺めているシーンです。

雲を眺めていると、太郎は、雲の上にいる自分を想像した。いつもした。長い長い距離を歩いてやっと雲の縁にたどり着き、そこに手をついて下を眺めている。街が見える。(四行略)ゆっくりと立ち上がると、空の天井に頭がつっかえる。誰もいない。 

 

柴崎友香さんに、何か自分を含めたこの世界を「俯瞰」する、あるいはしたいという思いがあるのかもしれません。

 

この『寝ても覚めても』では、この後、朝子が27階から街を見下ろし、信号待ちの女性について、1時間くらい前にその同じ場所から、今自分がいる高層ビルを見上げていた自分を思ったり、 自分がその交差点にいた時に、このビルから見下ろしていた人がいたかもしれないと、思いが広がっていきます。

 

おそらく、これは柴崎さんのものの見方の特徴的なことなんでしょう。

 

で、映画では、朝子が美術館へ牛腸茂雄写真展を見に行った時に麦に出会うのですが、小説ではこの展望台で出会います。ただ、さすがに映画のようにいきなりキスということはありません。映画では、そのうまさに感心した冒頭の子供たちの爆竹のシーン、小説では、この展望台で家族連れのリュックの中の花火が暴発(?)するシーンがありましたので、それをあのシーンにしたんですね。あらためてうまいなあと思います。

 

チェーホフやイプセンも映画の創作でした。牛腸茂雄もそうですが、こうした原作にはないもので、確かに朝子の周辺は大きく変わる感じはしますが、そもそも、原作においても、朝子自身は何かに影響されて(引きづられて)変わるようことはありませんので、映画として完成度をあげるためには、いろいろ方法はあるにせよ、ひとつの手段として正解だったのではないかと思います。

 

朝子は大阪弁を喋るんだとか、映画を見てその後に原作を読んだ者としては結構驚きはありますが、それも、映画の朝子は、大阪弁でこんなことを考えていたかもしれないと、逆にとても新鮮に感じられます。

 

小説には、麦と亮平が似ている似ていないという「顔」についての描写がかなり重要な要素として出てきます。

 

小説のラスト、朝子の行動の決定的な瞬間として、亮平のもとを去り、麦との逃避行(笑)の途中、春代から送られてきた過去の麦の写真を見て、「違う。似ていない。この人、亮平じゃない。」と、麦のもとを去るシーンがあります。

 

まあ人間、何に惹かれるかは人それぞれで、朝子の場合、麦への思いはビジュアルとして焼き付いてしまっている状態で亮平と出会い、それは名前は違っても、やはり麦でしかなく、ずっと麦と一緒にいる感覚だったんだろうと思います。

しかし、亮平とつきあう間に、いつしか顔は麦でも、存在として、総体として、自分が必要としているのは亮平なんだと、春代から送られた写真を見たその瞬間に感じたんでしょう。

 

人間顔じゃないよということではなく、朝子自身、亮平が麦と似ているから好きになったのではないかと、小説にも、映画にも、そんなことは何も描かれていませんが、ごく普通の感覚として、おそらくそういう思いはあったのでしょう。

 

それが、ふっと、過去のある瞬間を見た時、思い返した時、すーと解き放たれたのではないかと思います。

 

映画の感想では、 

いずれにしても、朝子は、きっぱり自分の意志で決断したということです。ただ、明日また新たな決断をするかもしれません。

などと書きましたが、この小説を読んだ今は、

 

朝子、お願いだから、この決断を最後にしてね。

 

と、心底思います。

 

春の庭 (文春文庫)

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