吉田修一著『湖の女たち』(ネタバレ)731部隊、やまゆり園、湖東記念病院

このところの吉田修一さんは連載ものの単行本化が多いように感じます。これも週刊新潮に2018年8月から1年くらいにわたって連載されていたとのことです。

それにしても連載ものって、書く人も読む人もよく集中力が持続するものだと感心します。

 

吉田修一著『湖の女たち』

吉田修一著『湖の女たち』

 

読む人はともかく、この小説では書く人、吉田修一さんは集中していないでしょう(笑)。むちゃくちゃ散漫な小説です。一体この物語はどこへ向かっていくのだろうとの疑問のままラスト直前までいきます。

 

がしかし、ラスト10数ページできれいにまとめ上げています。こういうところが無茶苦茶うまい作家です。 

 

 

構想では2つの話が軸だとは思うが…

構想としては2つの物語が最後にひとつになるということだったんだろうと思います。

 

ひとつは琵琶湖湖畔の高齢者介護施設「もみじ園」で入居者である100歳の元京大教授の市島民男が人工呼吸器を外され亡くなった事件、そしてもうひとつは雑誌記者の池田立哉が過去の血液製剤に関する汚職事件を調べる中で、その市島が戦時中に人体実験を行っていたとされる関東軍731部隊の軍医であったことです。

 

ところがその2つとも一向に深まらないんです。深まらないどころが待っても待っても市島殺害事件そのものの記述に入っていきません。事件なのか事故なのかわからないままラスト直前までいきます。

 

変わって頻繁に登場するのが、事件の捜査を担当する刑事濱中圭介と「もみじ園」の介護士豊田佳代の倒錯した性的関係です。SMの関係といっていいかと思います。最初に作家が集中していないのではないかと書きましたが、このふたりの描写には相当集中しています。次回作はこの手の内容になりそうです(笑)。

 

池田が調べている汚職事件も途中で有耶無耶で終わってしまいますし、市島が731部隊の軍医だったにしても市島の記述はまったくなく登場するのはその妻の話だけです。市島の事件が人工呼吸器を外した殺人事件だったとしてもその捜査自体が一向に明らかになりません。 

 

とにかく奇妙な小説です。通常であれば追うべき2つの物語は放って置かれ代わって異様な男女の関係が前面で出てくるのです。その関係はいわゆるSMだとしてもプレイではなく犯罪性を感じさせるとてもいやーな感じのする支配被支配の関係なんです。それも市島の殺人事件とは全く関係なく進み、最後にはなんと何もなかったかのように終わってしまうのです。

 

ラストのまとめ方を見てもなぜこのふたりの関係にこれだけのページ数を割いているのかまったくわかりません。ラストは市島が731部隊の軍医であったことが直接関係しているわけではありませんが、しかしその犯罪には731部隊の人体実験の残像が重なり合わさる不気味さのようなものと、現実の事件である相模原やまゆり園で起きた障害者殺傷事件の影響を思わせる終え方をしており、確かに読む者には支配被支配の気持ち悪さのようなものは共通して感じられるにしても同じ次元で語るようなことではありません。

 

タイトルにある「湖」というのは琵琶湖と731部隊があったハルビンの人工湖平房湖を指しているわけですが、問題は「女たち」の方ですね。この小説を読んで「女たち」という概念が浮かび上がってくることはありません。

 

むしろ「男」でしょう。これまで吉田修一さんの作品を読んできて何となく感じていたことに、吉田修一さんには「マッチョ」なものに対するあこがれがあるのではないかというものがあったのですが、この小説を読んでやっぱりそうだと確信しました。

 

もちろんこれは単に個人的な印象の話です。

 

731部隊の残像

731部隊の話は市島の妻松江の口から語られます。

 

軸となっている2つの物語のうち、雑誌記者池田が追っている過去の汚職事件に市島が絡んでいる可能性が浮上し市島宅を訪ねますと、民男の事件のこともあってかトントントンとつながりができ松江の方から話がしたいと言ってきます。

 

かなり都合よく進めています。調べていた汚職事件についても、ある時池田が暴漢に襲われ、またどこからかこれ以上足をつこっむなと会社上部に圧力があったらしくそのまま有耶無耶にしてしまっています。

 

松江から語られた話は昭和16年のハルビンでのことです。松江は731部隊の軍医である民男とともにハルビンの平房区の宿舎で暮らしています。ある冬の夜、人工湖平房湖ほとりのボート小屋で中学一年の日本人の男子生徒とロシア人の同級生の女子生徒の全裸の凍死死体が発見されます。

実はその前日、松江はふたりが何人かの男子生徒とともにボート小屋に入っていくところを目撃しているのです。松江がボート小屋の窓から覗きますと、男子生徒たちは汚れた白衣を着て「ふたりとも服を脱げ。これは実験だぞ!」「上官の命令に従え!」とふたりを囲んでいるのです。しかもそのひとりは隣の家の男の子です。

後日、松江がその男の子に声を掛けますと「僕、来週から学徒動員で勤労奉仕に行きます」「ソ連との国境に近い牡丹江の部隊に決まりました。留守中、母や妹たちをよろしくお願いします」と言って頭を下げるのです。

 

松江は一面凍った平房湖が穏やかな冬日を浴びて輝き、一羽の丹頂鶴がゆっくりと冬空に飛びだっていく美しい風景とともに記憶していると語ります。

 

湖東記念病院人工呼吸器事件

吉田修一さんはよく現実に起きた事件を小説の中に取り入れます。731部隊もかなり古い話とはいえ現実にあったことですし、市島民男の死亡原因である人工呼吸器取り外し事件は警察の違法捜査も含めて「湖東記念病院人工呼吸器事件」をベースにしていると思われます。

 

 

ああ、現実の事件の西山美香さんの立場がふたりの人物に分解されているのかもしれません。

 

ひとりは介護士の松本という女性で刑事の濱中圭介によって自白を強要されて心身ともに憔悴し自殺未遂をおこしています。松本は後に人権派弁護士がついて刑事告訴し裁判になっています。

そしてもうひとりが豊田佳代で圭介と異様な関係を持つ女です。佳代は事件の犯人と目されるわけではなく圭介に事情聴取された後のある雨の日、帰宅途中に圭介の車に追突してしまい、そのショックと事情聴取の時の緊張感が重なって圭介に精神的に支配されたとの設定になっています。

 

もちろん西山さんの場合とはまったく関連もありませんが、上の引用の中に西山さんの証言として括弧でくくられている「刑事さんのことを好きになって、気に入ってもらおうと思ってどんどん嘘を言ってしまった。こんなことになるとは思わなかった」とある部分を小説的に圭介と佳代の関係に置き換えたのかもしれません。

 

先に佳代の物語に強い違和感がありましたので「女たち」が浮かんでこないと書きましたが、佳代だけではなく松本も含まれていると考えればタイトルの『湖の女たち』もやや納得できます。

 

そして肝心の市島民男殺人事件は思わぬ方向に展開し、さらに複数の女たちが絡んでくることになります。

 

相模原やまゆり園殺傷事件の波紋

あらためて思い返してみますと、よくも悪くも事件の主役は女性になっています。

 

佳代が働く介護療養施設「もみじ園」のユニットリーダーに服部という女性がいます。服部は孫の三葉と暮らしており、そのわけは服部の娘が離婚し別の男と暮らし始め、その男と三葉の折り合いが悪かったために引き取ったということです。

 

この服部と三葉が、市島松江が語った隣りに住む男の子とその母親に重ね合わせてあります(多分)。

 

ああ、松江は佳代ですね。上には書いていませんが、松江と隣の男の子の母親三子とは当然親しく話す中ですのでその記述はそれなりにあります。同じように佳代も同僚であり上司でもあるわけですから服部とは話す機会も多く割と早い段階から孫の三葉の記述もあります。

 

もうひとつ気づきました。佳代の同僚につきあっている男がユーチューバーのような人物がいて Youtubeへのフリがあります。後日、その同僚が佳代に、介護施設の入口から市島民男の部屋までを写しただけの動画が Youtubeに上がっていることを教えます。佳代はその動画を圭介に見せます。

 

これは松江がボート小屋の犯罪を覗き見たこととの対比ですね。

 

ただ、この動画は圭介の側では進展しません。なにせ圭介は佳代との関係に溺れてしまっていますのでそれどころではありません。この動画から事件の真相を手繰り寄せるのは雑誌記者の池田です。

 

これもかなり都合よく話が作られていると思いますが、警察に情報提供者がいて池田にその動画の存在を教えます。その情報提供者は池田が追っていた過去の汚職事件を立件できずに悔しい思いをしているという設定であり、また圭介の上司でもあります。ただ、この人物は分裂しています。圭介が自白強要をするようプレッシャーを掛けたりするのもこの上司ですので、作者にはなにか意図があるのか連載ゆえのブレなのかよくわからない人物です。

 

で、結局、池田はその動画に写り込んでいる車がユニットリーダーの服部の車であることに気づき、服部の自宅で孫の三葉に会います。

 

そんなことくらい警察だって調べるでしょうと思いますが、とにかく圭介はそれどころではありません(笑、っていいのか…)。ただ、ラストの解決編で池田が三葉たち(たちは子どもたち)を張っている時に圭介も張っているとの記述がありますので、書いていないだけで圭介も三葉たちに目星をつけているということなのかもしれません。

 

三葉は生物クラブに入っており何人かの男の子たちを家来のように引き連れて早朝から野鳥観察にいくという人物です。池田は服部宅を訪れ三葉から野鳥の写真を見せてもらうことになりその中に三葉たちが白衣を着ている写真を見ます。当然池田の中では松江の話とシンクロします。

そして池田は社に戻り三葉のツイッターアカウントを調べます。すると三葉の初めての投稿は「相模原やまゆり園殺傷事件」の Yahooニュースのシェアから始まっているのです。

 

「半年後」

 

オイ、オイと言いたくなるくらい唐突に半年後になっています(笑)。

 

佳代は圭介から解き放たれ吹っ切れているようです。圭介は自身の捜査の違法性を認め訴訟になり、いずれ辞めることになるだろうと言われています。

 

夏休み中の午前4時、池田が琵琶湖湖畔のバンガローを張っています。池田は言葉を交わしたことはないけれどもそれと知る濱中圭介という刑事が駐車場の車の中にいることを認めます。

 

その時、白衣を着た三葉たち生物クラブの子どもたちが出てきます。三葉を先頭にして一列に並び黙々と行軍するように歩いていきます。三葉が口を開き何かを言います。池田は風に乗ってきたその言葉、ある介護施設の名前を耳にします。

 

このラストシーンの前には、松江が語ったハルビンの平房湖の美しさと対比させるように早朝の琵琶湖の美しさが数ページにわたって作者渾身の描写で語られています。

 

書き下ろしで書くべきテーマ

こうやって物語を整理してみますと何だかもったいなく思えてきます。やっぱり連載ものゆえに物語があっちこっちへ散らばっている気がします。うまく回収されていないとか、都合良すぎるとか、唐突だとか、流れがゴツゴツしています。

巻末には「大幅に加筆、改稿した」とありますので連載版がどんなものであったかはわかりませんが骨格はそうは変わらないでしょう。

 

と、吉田修一さんでググっていましたら2019年に11年ぶりの書き下ろし『アンジュと頭獅王』を発表しているんですね。知りませんでした。

 

アンジュと頭獅王

アンジュと頭獅王

  • 作者:吉田修一
  • 発売日: 2019/09/30
  • メディア: Kindle版