東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

東浩紀さんを初めて読んだせいなのか、読みにくかったです(笑)。

 

何がかといいますと、本の構成にリズムがなく、行ったり来たりの繰り返しで、いつになったら本論に入ってくれるの? みたいなイライラがつのり、一度目は途中で挫折、今回二度めですが、第一部の観光客の哲学で返却の期限が来てしまいました。文句を言うなら自分で買え!って感じですね(笑)。 

 

で、この本の出発点のひとつは、ルソーの引用から、人間はそもそも人と関わりたくない存在なのにどうしても社会というものを作ってしまう、つまり、社会と実存の対立はなぜ生まれるかといったことだと思いますが、東氏はこう書いています。

 

人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる。(64p) 

 

で、それを、観光客という概念を使って解き明かそうとしているのですが、これが私にはよくわかりません。

 

従来の哲学では、

家族から市民へ、国民へ、そして世界市民へといいう単線的な精神史を前提とする限り、原理的に答えることができない。そこでは、国民になることは政治的になることに等しく、そして国家について考えることは政治について考えるに等しいからだ。

しかし、(略)現代世界では、国家を介さない政治、もはや国家には管理できない政治の領域が巨視的にも微視的にも広がっている。(116p) 

 

つまり、グローバリズムのことをいっているわけですが、現在の世界は、国民から世界市民へと直線的に向かっているわけではなく、グローバリズム(帝国)とナショナリズム(国民国家)が時に衝突し、時に折り合いをつけるという二層構造となっているということで、いささか単純すぎないかとは思いますが、

ぼくたちは、国家と市民社会、政治と経済、思考と欲望、ナショナリズムとグローバリズムの二つの層からなる、二層構造の世界に生きている。(127p) 

 と言っています。

 

で、その二つの層をつなぐことが可能なものとして「観光客」という概念(存在?)を位置づけようとしているということになるのでしょうか。

 

まず、マルチチュードという概念を持ち出してきます。

 

マルチチュードとは要は反体制運動や市民運動のことだが、ただ、かっての運動とは異なりグローバルに広がった資本主義を拒否しない。むしろその力を利用する。たとえば、インターネットによる情報収集や動員などを積極的に利用する。企業やメディアとも連携する。そして体制の内部からの変革を企てる。 (142p)

 

その例として「アラブの春」をあげているわけですが、ただ、マルチチュードには致命的な欠陥があると言います。

 

「アラブの春」のその後をみればおおよそ検討はつきますが、欠陥とは、これではある種宗教的に信ずればなんとかなるみたいな話で「愛のプロジェクト」のようであり、連帯を求めることが目的化し、その後の運動論がないということになります。

 

で、いよいよ「観光客」

 

観光客とはなにか。それはまずは、帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称である。(155p) 

 

これ、わかんないですよね。

 

で、ここで「郵便」「誤配」という概念が出てくるのですが、詳しく知りたかったら『存在論的、郵便的』を読めとなるわけです(笑)。

 

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

 

マルチチュードが郵便化すると観光客になる。観光客が否定神学化するとマルチチュードになる。これはあまりにも奇妙な規定に響くだろうか? だとすれば、みなさんはまだ「マルチチュード」と「観光客」の語感の遠さにごまかされているのだ。連帯の理想を掲げ、デモの場所を求め、ネットで情報を集めて世界中を旅し、本国の政治とは全く無関係な場所にも出没する二十一世紀の「プロ」の市民運動家たちの行動様式がいかに観光客のそれに近いか、気がついていないのだ。(159p) 

 

その後、その具体的運動論を語るために、ネットワーク理論(らしい)「スモールワールド」「スケールフリー」というものを持ち出し、それを「郵便」と「誤配」にもとづいて行動する「観光客」に当てはめようとしているようですが、これを著者は「神話」であると言っています。

 

もうわたしの能力では理解できなくなっています(笑)。理解できないというよりも現実世界のなにを指しているのか理解できないということなんですが、とにかく、ほぼ8,9割近くが過去の哲学者の引用ですので、何だかつぎはぎだらけにしかみえません。

 

それに、直感的に感じるのは、結果現状を肯定しているだけじゃないかと思います。

 

で、最後に、

しかしそれでは、僕たちは、デモにも行かず、ただ観光旅行に出掛け、手当たり次第に人々に声をかければ、それだけで帝国への抵抗を実践していることになるのだろうか? むろんそんなわけはない。本書がいう観光客は、もう少し複雑な存在だ。

(略)その問いに対して、正面から答える余裕は残念ながら本書にはない。(193p) 

 

はあ? どこで答えてくれているのだろうか?

 

その問いに対して、正面から答えられるほど東浩紀氏の本を読んではいません。

 

もう一度借りて読み直すか…。