「ベロニカとの記憶」の原作=ジュリアン・バーンズ著『終わりの感覚』

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

 

映画「ベロニカとの記憶」の原作です。 

映画とは随分印象が違います。

表現形態の違いと言ってしまえばそれまでですが、映画で一人称小説、特にこうした自分自身の心の奥深く沈み込んだ記憶を探り、悔恨に満ちた心情を吐露した小説を映像化することは相当困難だということでしょう。

ほぼ全編、自分自身が自惚れで知ったかぶりで傲慢であると自虐的に語り、それでもなお自分自身が何者であるか自覚できず、結局、自分が何も分かっていなかったと自責の念や悔恨の情に苛まれる人物の一人語りの小説です。

小説は、一人称や三人称、そしてその中にも幾つかのパターンがあったりと、多様な視点を持つことが出来ますが、映画は、基本、三人称の視点しか持ちえません。

一人称の小説は、それがどんなにその個人の身勝手な考えや妄想であったとしても、読者には、単にその個人の考えに過ぎないと理解されて読まれますが、仮にそれをそのまま映像化してしまえば、観客には客観的事実のように感じられてしまいます。

ですので、それをどう描くか、あるいは本当に描けるのかということになり、この「ベロニカとの記憶」にもそのあたりの苦労は見え隠れしています。ただ、決して成功しているとは言い難く、結局かなり軽い映画になってしまっています。むしろ、逆に最後まで徹底的に嫌な人物として描き、ラストも「時間のなかに生きる」孤独なトニーを印象づけるシーンで終わる方法もあったのではと思います。

それはともかく、ここで思うことは、このところの映像文化の隆盛と文字文化の衰退傾向をみますと、小説を始めとする文字文化に触れることが少なくなれば、一人称でしか表現できない個人の心情のようなものを理解できない人間が増えてくることになりはしないかということです。

ただ私にしてもそう多くの文字に触れているわけではありませんのでそう大きなことは言えませんし、それに50年、100年前の時代からみれば、私(たち)が気づいていない何かしらの感覚を失ってきているかもしれないわけですので、いいか悪いかの問題ではないのかも知れません。

前置きが長くなりましたが、『終わりの感覚』です。

ただ、この小説はあらすじなど知ってもほとんど意味がなく、実際に読んでトニーの独り言のような、結構鬱陶しい心情を読み続けないと全くわからないと思います。

60歳を過ぎ人生も先が見えてきた男トニーが、あることで自分の青春時代を思い返すことになり、自分がこれまでこうだと記憶していたことが、そのあることで覆され、悔恨の情とともに、時間の中で生きる人間という存在の不確かさについて思いを巡らすという小説です。

前半と後半に分かれており、前半は主にトニーの青春の記憶が語られ、後半はそれが覆されていくということになります。

トニーは、日本でいえば高校に当たる学生時代、3人のグループで行動することが多く、そこにエイドリアンという優秀で教師とも対等に渡りあおうとする、言い換えれば理屈っぽい転入生が加わります。

エイドリアンの人物像が歴史の授業のエピソードで語られます。

教師が「歴史とはなんだろう?」と尋ねます。尋ねられたトニーは「歴史とは勝者の嘘の塊です」と答えます。一方、エイドリアンはパトリック・ラグランジュという人物の言葉を引用して「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」と答え、その実例として同級生ロブソンの自殺について語り始めるのです。

ラグランジュという人物が実在なのか、エイドリアンの創作なのかは、私には読み取れませんでしたが、いずれにしても、このエイドリアンと教師の議論がこの小説のテーマであり、最後に明かされるエイドリアンの自殺の理由について、トニーが後悔の念とともにあれこれ思い巡らせることの伏線になっています。

その後4人は高校を卒業、エイドリアンはケンブリッジへ、トニーはブリストル大学へ進み、トニーにはベロニカというガールフレンドも出来ます。

映画ではタイトルを「ベロニカとの記憶」としていますので自ずとベロニカに焦点があってしまいますが、実はベロニカがどんな女性であるかはあまり語られておらず、結局トニーは振られているわけですから、良い記憶など語られようはずはなく、実際のところどんな人物なのかははっきりしません。

いずれにしても、トニーの家庭よりはちょっと上流らしく、誘われて訪ねたベロニカの家庭では、トニーにしてみれば下に見られ、揶揄され、侮辱された記憶しかないわけです。

二人のつきあいはその後2,3年続いたとありますが、肉体関係はなく、そして別れます。この別れもはっきりした理由は語られず、まあそりゃそうですね、振られた方が自分に落ち度がないと思っているわけですから、振られたわけなど分かるはずがありません。

そしてある時、エイドリアンから手紙がきます。そこには、ベロニカとつきあっている、分かって欲しいと書かれています。トニーはあれやこれや思い悩んだのでしょう、「当方にはなんの支障もなきことをしかとお伝え申し上げておくからね、エイドリアン君」と返信します。

そして、(おそらく、1,2年後だと思う)エイドリアンが自殺したとの手紙を受け取ります。

こうやってあらすじのようなことを書きますと、エイドリアンの自殺がトニーの人生に大きな影響を与えたとトニーが思っているようになってしまいますが、そのようには書かれておらず、割とそっけなく書かれており、その後の自分の人生、マーガレットという女性と出会い結婚しスージーという娘も成人し、その後マーガレットとは離婚したものの今でもいい関係であり、自分自身よくやった、生き残ったと語り、「歴史とは勝者の嘘の塊」ではなく「生き残った者の記憶の塊」なのだと総括して前半は終わります。

長くなりましたので、後半は簡潔に書きますと、ある日、見知らぬ弁護士から、ベロニカの母がトニーに500ポンドの現金と2通の文書を残しているとの手紙が届きます。トニーは、この不可解な遺産の意味を、自分の記憶を辿り、そしてベロニカにも会うことで、前半に語った自分の記憶とは違ったもうひとつの事実に向き合うことになります。

ネタバレしてしまいますと、まず、2通の文書の内のひとつは、エイドリアンの日記ということであり、その内の1ページのコピーが送られてきます。

そこには、おそらく自殺する直前の心情と思わる言葉が、しかしトニーには意味不明な「整数 b, a1, a2, s, v が関係する累積は、」といったエイドリアンらしい哲学的な言葉で残されており、その末尾は「たとえば、もしトニーが」で途切れているのです。

トニーは幾度もベロニカにコンタクトを取り、そして会ったその日、ベロニカの母の遺品であるもう1通の文書を受け取ります。

それは、トニーがエイドリアンに送った手紙であり、その内容はトニーが記憶しているようなものではなく、二人に対する憎しみをぶつけ、ベロニカを侮辱し罵倒する酷い内容で「永遠に傷つきますように」とか「時による復讐を僕は信じる」とか「何の罪もない胎児に、君たちの股ぐらの産物だったと知る不幸を味あわせ」などと書き綴ったものだったのです。

映画のレビューにも書きましたが、普通はこんなおぞましい手紙を書いたことなど忘れるはずはなく、ややこの設定には違和感を感じますが、逆に考えれば、このトニーという人物は相当に自己中であるということかも知れません。

たしかに、自分自身の醜い過去を突きつけられたトニーはさすがにショックを受け苦しみますが、それでもその後もベロニカに会いたいとメールを送り、そこにはあるいは今ならやり直せるのではないか、ベロニカもそれを望んでいるのではないかなどと妄想を巡らせたりするのです。

ベロニカはトニーを精神的な障害を持つ男性に会わせます。トニーは、その顔立ちや年齢からその男性がベロニカとエイドリアンの子どもだと思い込みます。

そしてラスト、さらに深いエイドリアンの苦悩を知り、そのことに自分も少なからず関与しているのではないか、そして人が人生の終わりに近づいた時、どんなに悔やんでも変えることの出来ない時間の累積があり、その向こうにあるものはただ混沌であり、それを前にして人はただ立ちすくむしかないことを知るのです。

実は、その障害を持つ男性は、ベロニカの母とエイドリアンの子どもだったのです。おそらく高齢出産によるダウン症という設定なんだと思います。

あまり気持ちのいい伏線ではないのですが、トニーの手紙にあった「復讐」であるとか「呪う」という言葉や「何の罪もない胎児に、君たちの股ぐらの産物だったと知る不幸を味あわせ」といったことを連想させます。

そして、ベロニカの母との関係については、私はかなり強引だとは思いますが、手紙に「ベロニカの母に相談しろ」と書いたことに責任を感じ、そして、あの意味不明な数式の意味を知るのです。

「整数 b, a1, a2, s, v が関係する累積は、」の持つ意味

それは、a1 はエイドリアン、a2 はアントニー(トニー)、sはベロニカの母セーラ、vはベロニカ、そしてbはベイビーであり、それらが関係する累積は、「たとえば、もしトニーが」‥‥‥であり、トニーはそこに責任の連鎖を見たわけです。

かなり強引で理屈っぽいまとめ方ではあります。おそらくこの作家の特徴なんでしょう。

フロベールの鸚鵡 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

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