フィリップ・ジャン著 松永りえ訳『エル ELLE』(Oh…)

映画を見て興味を持ち読んだ本です。

movieimpressions.com

上のリンクの映画のレビューでは、

おそらく元々は、被害女性が、レイプ犯は元夫?恋人?部下?隣人?といろいろな仕掛けをして追い詰めていくサスペンスが基調ではではないかと思う

と、原作を想像して書きましたが、全く違っていました。

ミシェルのキャラクターはともかく、映画はかなり原作に忠実に描こうとしたようです。レイプ犯が誰かなどといったサスペンスぽさはまったくなく、ミシェルは、かなり早い段階でレイプ犯が隣人のパトリックだと見抜きます。

映画でもそうでしたが、この小説の主題はどうやらレイプ犯がどうこうではなく、ミシェルという女性そのものの存在を書き尽くそうとしているようです。

翻訳が原文の文体や形式を再現しているとの前提ですが、ミシェルの一人称文体であることはもとより、全編ミシェルの主観で次から次へと場面が転換していきます。空行もありません。行が変わると違う場面に変わっているのです。

つまり、ミシェルの見たもの、感じたことが一切章立てなどの形式によらずに最後まで書き切られているのです。

このことで作者の意図は明白ですね。

映画のレビューでは、このことをミシェルとミシェル以外の他者の間に「主従関係」があると表現しましたが、小説で感じるミシェルはもう少し人間臭く(ちょっと違う)、映画のミシェルが他者に影響されない強さを持っていたことに比べますと、小説ではかなり心の揺れが表現されます。

小説という表現媒体がそういうものですから当然なんですけどね。

で、一切章立てがないとは書きましたが、ただひとつ、最後だけ、ヴァンサンがパトリックを殺した後の数ページがページ替え後に書かれています。

そして、

真実を知っているのは私だけだ。私だけが、あれは演出だったと知っている。

と、パトリックのレイプや暴力的なセックスをミシェル自身も楽しんでいたと明かすのです。

これ、ちょっと不思議な感じですね。あえてそういう書き方をしなくても、すでにその前からミシェル自身がパトリックの暴力的なセックスを望んでいることは書かれていますし、挑発もしたりしているわけですので、何だかわざとらしい記述です。原文では何か違ったニュアンスがあるのかも知れません。

いずれにしても、映画ではあまり感じられなかった、パトリックとの行為によって自分の中の何かに出会ってしまった動揺が小説の中のミシェルにはあります。

その動揺とともに母親の墓の前に立ったミシェルは、心のなかで「おまえはなんて臆病なんだろうね!」と母親の声を聞くのです。75歳の母親は、それがゆえにミシェルとともに長年苦しめられてきた服役中の凶悪殺人犯の夫を許し、ミシェルにお前も会いに行けといい、今は若い男と同棲し、そして死んでいった人です。

そしてもうひとり、番組制作会社の共同経営者アンナ。

ミシェルは長い間アンナの夫と不倫関係にあり、それを告白する羽目になり、しばらく友人関係が途切れていたのですが、ラスト、アンナがミシェルを訪ねて、おそらく弱気からだと思いますが、「女子学生にでも部屋を貸さないとだめかもしれない」とつぶやくミシェルに、アンナは「部屋なら私に貸せばすむでしょ」と言うのです。

いずれにしても、あらゆる面において女性の自立が可能な国のお話ではあります。