川上未映子著『ヘヴン』文体のリズムで人物を浮き上がらせるタイプの作家(1冊読んだだけの多分)

NHK の「SWITCHインタビュー 達人達」という番組の「新海誠×川上未映子」の回を見て、川上未映子さんのパワフルなトークに興味を持ち読んでみました。

ついこの間のことですので、私が見たのは再放送だったようですね。

あっ、「君の名は。」を見に行く気になったのも、この番組見たせいかもしれません。別ブログ「そんなには褒めないよ 映画評」に書いたんですが、アニメをほとんど(全く)見ないのに、なぜか見てしまった(笑)と書いたんですが、その訳がこれかも知れません。

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

 

出だし、ああいじめかぁ、中学生かぁと、やや引き気味だったんですが、しばらく読み進みますと、テレビで見たあのパワフルさにも近い、力強い語り口についつい引き込まれ、一気に読み切りました。

優しい言葉遣いですし、ごくごく日常的な文体なんですが、多分言葉のリズムなんでしょう、読めば読むほど引き込まれます。

全て、主人公「僕」の一人称で語られ、自身の心理描写と「僕」が誰かと交わす会話文で物語は進みます。

「僕」は、斜視であるがゆえ(と「僕」が思っている)にクラスの同級生から日常的にいじめを受けています。いじめる側は「二ノ宮」、彼は「僕」と小学校から一緒であり、スポーツも勉強もよくできるという人物ですが、さほど深くは描かれておらず、単純にいじめる側の人物として登場します。

いじめる側にはもうひとり「百瀬」という人物がおり、彼はいじめる側であっても、直接的にいじめに加わる描写はなく、どこか悟ったようなところのあるキャラクターで、後半に「僕」と対峙して、いじめについて議論(のような会話を)するシーンがあります。

実は、このシーンがこの物語を非常に分かりにくくしているのですが、つまり、百瀬に、いじめたくていじめているわけではなく、すべてがたまたまであり、全てが偶然なのだと屁理屈を言わせているわけで、このシーンが、多分作者の、この物語をどう終えたらいいのか、いじめについてどう結論づけたらいいのかといった迷いの現れなんだと思います。

話が飛んでしまいましたが、もう一人重要な人物に「コジマ」がいます。

作者にとって、この「コジマ」こそが一番書きたかった人物ではないかと思いますが、このコジマは、いじめられる側ではあるのですが、あえて自らいじめられることを選んでいるとも言える人物です。

いじめられる理由は不潔だからなんですが、その不潔さは、事業に失敗し、母と離婚し、母から侮蔑され、苦しい生活を送っている「父」とともに自分が一緒にいるんだと確認するために自ら選んでいる「不潔さ」なんです。

ある日、「僕」は「コジマ」から手紙を受け取り、心を通い合わせる関係となります。この前半から中盤にかけての二人の描写、語り口が、いじめられる心理とは、あるいはこういうことかもしれないと思わせ、かなりリアリティを感じさせます。ここが川上未映子さんの特徴であり持ち味なんだと思います。

ただ、終盤は、正直、ここまで書いてきて、なぜここに行き着く? と言いたくなるようなエンディングで、まあ、やはり作者の迷いがそのまま現れているのでしょう。

迷いは迷いとしてそのまま書き切ってくれればよかったのにとは思います。

もう1,2冊読んでみましょう。

乳と卵(らん) (文春文庫)

乳と卵(らん) (文春文庫)